2008.01.17(Thu)
からっぽ?
去年末、パッケージングについて書きました。
私自身のライフスタイルが
パッケージされたものに囲まれることで可能なのだとしたら
じゃあ、パッケージングを取ってしまったあと
いったい自分に何が残されるのでしょうか。
自分の生活から、
消費のために手に入れたオリジナルでないものを
すべて手放していったあとに私に残るもの…
それは本当にごく限られたものしかありません。
まず、自分のからだ。
家族、それから…。
真剣に考えれば考えるほど
その少なさに愕然としました。
自分を主張しているつもりだった洋服にしても
自動車にしても、携帯にしても、
ヘアスタイルにしても、お化粧にしても…。
多くのものは自分の外からの情報を参考に手に入れて
「自分のものだ」、あるいは「これが自分だ」
と思い込んでいるものでしかなかったのです。
でも、私が私であるために本当に必要なものって、
生まれた後の人生で手に入れた、
後付けパーツの在庫表には、
ほとんどないのだ、と気づいたのです。
人は、自分の体ひとつで生まれて
そして体ひとつで去っていきます。
その間、自分の周りとさまざまな関係性を築き、
多くのものを外側に抱えながら人生をすごしていくけれど
死ぬときは、お金やものだけではなく、
家族や恋人など、手に入れたすべての関係性を手放して
最後には、体さえも手放して去っていきます。
そして、当たり前のことですが
肉体を去る期日は本人にさえもわからないまま
でも、誰もが明らかにその日に向かって生きています。
(別に虚無的になる必要はないですが…笑)
そう考えたとき、人間が生きることって
いったい何なのだろうと思いませんか?
お金を稼ぐことが主たる目的なのだとしたら
生き残ることだけに囚われていたとしたら…。
とても、もったいなく思います。
何のために、この世に肉体をもって生まれたのか?
私は小さいころから、
人は何のために生きるのかを
自問自答してきたように思います。
何十年もずーっと、この問いを発してきましたが
いまだ100%明確な答えは出ていません。
それでも、何となく方向だけは見えてきた感じがします。
その方向性が私にとっての
「ナチュラルスタイル」なのかな、と。
現代社会は、基本的にこの問いをさせない社会です。
なぜなら、その問いを自分の内に発してしまうと
現代社会の自動昇降エレベーターから
降りなくてはならなくなってしまうからです。
もしエレベーターから降りてしまって
自分だけ「損」をしたらどうしよう。
仲間はずれになったらどうしよう。
生きていけなくなったらどうしよう…と。
私もその不安と恐れのため
なかなかエレベーターを降りることができませんでした。
たしかに怖いです。
もしレールから外れて
何もかも失ってしまったら…と。
でも、私は思い至りました。
人間はこの世に生まれてきたとき
もともと何ももっていなかったし、
死ぬときも何ももっていけないのだから
別に何も恐れなくていいんじゃないか、と。
別に人と同じ人生じゃなくて全然いいじゃないか、
同じ持ち物をもっていなくてもかまわないじゃないか
と思うのです。
まずそれを自分に許せる勇気をもてたら。
そして人の個性を認め合える思いやりをもてたら。
それが本当の意味での平等な世界なのかもしれません。
そして、こうなったとき初めて、
パッケージングされた世界や
マニュアル化された人生から解放され
自分オリジナルなものが生まれ出るのかもしれません。
そのようなオリジナルな生き方の積み重ねが
世界を変えていくことにつながるのでないかと思います。
阪神淡路大震災が起こった日に
ふと考えてしまいました。
(ヨシダヤスアキ)
>EntryTime at 2008/01/17 18:56<