2008.09.06(Sat)
ふと、考える。
なんで人間っているのか、と。
ときどき、ふと何かの拍子に
「なんで人間は存在するのか」
考えることがあります。
地球上の自然界に存在する
すべての生命や存在物はすべて
他者を生かすために存在している。
どんな小さな命でも、
ほかの生命を育むために
生かし生かされています。
でも、人間はどうなんだろう。
たとえ、人間が地球上からいなくなったとしても
きっと、ほかの生命にとって何の問題もないでしょう。
もちろん、地球にとっても何の問題もありません。
ペットはどうするんだ?
絶滅に瀕している生物は?
…という疑問もあるかとは思いますが
どちらも、人間の活動によって起こった問題で
人間が存在しなければ、なにも起こらなかったはずです。
そう考えたとき、環境問題は
まったく理論が逆さだということに気づきます。
地球や自然のために環境を守ろう…という言葉は
本当は何のためなのかが見えてきます。
つまり、自分たち人間のためです。
人間が今後も経済成長を続け生き延びるために
どこまで自然や地球を利用できるか
そのための限度を規定しているのです。
つまり、持続可能な社会を構築することは
自分たち人類が生存し続けられるように
地球や自然や生物の利用できる限度を見極め
その中で最大限に有効利用しようという考え方です。
つまり、今のエコ(ロハスも)=エゴ、だったのです。
でも、その考えは当然ともいえます。
人間には生存欲求本能がありますから
(生物として当然のことだと思います)
自分たちが滅びないように、生き延びようとするのは
生命として当たり前のことだからです。
ですから、この事実を真摯に受け止めたうえで
エコを行なっていくことが大切だと私は思っています。
そして、私はここでさらに考えます。
深く「考える」のです。
人間には、この「思考」があることが
すばらしいことだと思っています。
たぶん、ほかの生命にはほとんどない、
人間がこの地球上に存在する
大きな意味の一つだと思っています。
さっき、自分たちが生き延びるために
自然を利用するのが人間だと書きましたが、
じつは、それは他の生物や自然や地球に対してだけではなく
自分が利益を得るために他者(同じ人間)を利用しているのが
現代の人間社会なんだと私は感じています。
「どっちが得か」、「どうしたら損をしないか」
という損得勘定を価値判断の基礎にもち、
個人も、家庭も、企業も、社会も、国も、
どうやって自分たちの利益を確保するかが
社会的な正義となっているからです。
この考え方で物事を判断していけば、
当然、自然や地球に対しての行動も
損得勘定の思考の延長線上からしか
生まれないと思うのです。
そして、この考え方をベースにした社会では
無意味な争いや犯罪や差別や戦争は
いつまでたってもなくならないような気がします。
「発生した問題にいかに対処していくか」
に追われる問題解決のための(対処療法的な)社会が
これからもずっと続くように思います。
でも私は、人間という存在が本当に、
このような「小さな損得勘定」を行なうために
地球上に存在しているとは、どうしても思えないのです。
それでは非常にもったいない気がします。
その気になりさえすれば、
すばらしいことが無限にできる。
すぐにでも世界を平和にできる。
そんな可能性を秘めていると思うのです。
(ヨシダヤスアキ)
>EntryTime at 2008/09/06 23:55<